自らの振る舞いとしてのインテリジェンス

自分自身がインテリジェンスある姿になれているか

インテリジェンスというと、とかく知をかき集めるような、ストックを膨らませる発想になりがちです。もちろん、知はあってこまるものではないでしょうが、使えない知ははたして意味があるのでしょうか。

インテリジェンスを語るということには一種の矛盾が存在します。語ることで、インテリジェンスが他人事になってしまうのです。何か客観事象を観察するのならそれでもかまいませんが、仮にインテリジェンスでない人がインテリジェンスを語っているとしたら、どうでしょうか。まったく説得力がないでしょう。

このように、インテリジェンスを問うのであれば、まずは自分自身の振る舞いから見直していかねばなりません。確かに相手から見て、普段からこの人はインテリジェンスある振る舞いをしていると認めてもらえるかどうか、それにつきます。

情報の扱いに関しても、情報を得るのがうまいことがインテリジェンスと勘違いされやすいですが、実は得る以上に、いかに情報を発するかがインテリジェンスに直結します。決して頭でっかちがインテリジェンスの指標ではないのです。むしろ行動力とインテリジェンスが密接に結びつきます。言い換えるなら、行動のエナジーがインテリジェンスの多寡に連動します。

何事もやってみて、そこからインテリジェンスは始まります。行動こそが次なるインテリジェンスを引き寄せるのです。その意味では、情報を集めるばかりで行動できないという姿勢はインテリジェンスになじみません。出発点を勘違いしないことが第一です。