バイアスへの対処

良くも悪くも、私たちの思考は一定のバイアスを持っている。それが個性でもあるわけだが、放っておけば視野はどんどん委縮してしまう。時として、半ば強制的に、普段なら選択しない情報源に接触すること、そしてあたり前に疑問の余地を与えること、それが自身の思考の偏食に対する気付きにつながる。

自らの殻を壊すのも、また自らの殻に閉じこもるのも、自分次第である。少なくとも、漫然と殻に覆われるのではなく、自分の殻はどこにあるのか、意識しておく(意識できる)ことが最低限のリテラシーとなる。

技術の進歩は、確かに利便性を提供する一方で、われわれの思考を抑止する性質も兼ね備えている。便利さは流れに任せて考えるいとまを与えない。それに無自覚であることは意外と罪深い。

情報化によって、知の偏りが心配されているが、それは今に始まったことではない。保守的な人はどうしても自らの殻に閉じこもる。むしろ目にする光景が画一化されてしまえば、何か物足りない、面白くないと感じるのが人情だろう。人間は好奇心をうまく活用して、今の現実社会まで上り詰めている。だとすれば、いわゆるフラット化が過度に進めば、必ずそれへの反動として、他とは違ったものが求められるようになることは期待できまいか。要は即物的に知的欲求を満たせばいいのか、それとも自ら切り拓いて会得すること自体に意義を見出すのかの違いでもある。

豊かさが盲目を招くことも見逃せない。不便であればあるほど、かえってインフラの革新が急速に進むという事態もある。逆に、ある程度のレベルまで満たされてしまっているとの安穏さの中では、あえて変えるという動機が削がれる。イノベーションのジレンマではないが、現状延長のあたり前が気づきのチャンスを覆い隠す。