知らぬを知る 間違いは最良の機会

知ったふり、知っているつもり、なんとなく理解している、など、すでに知っていることの分量で安心してしまう。しかし、ほんとうに求められているのは「何を知らないか」のほうなのだ。知らないからこそ気づきが得られるのであって、知っていることに慢心しているところからは+αは見いだせない。

間違いに向き合うことは存外難しい。それこそ上書きしてしまえば間違いを帳消しにできるかのように錯覚させる。それが過度に正解を追い求める原因ともなる。つまり、間違いへの向き合い方を学ばなければ、間違いを超克したことにはならない。端から間違えないという方法は現実的ではない。なぜなら、人は間違えるものだから。だとすれば、どう間違えるか、上手に間違えることが差異を生む。とかく人は間違いから目を背けたがるものである。だからこそ、間違いに真摯に向き合えるかどうかが問われている。

パソコンのハードディスクが空き容量に書き込みするように、わたしたちも自分に空き容量をつくる必要がある。なぜなら、空きがなければ、新たなものは吸収できないのだから。だとすれば、自分に空きがある=足りない部分があることを積極的に認めることが知性の源泉なのかもしれない。

知は得ることではなく、為す(成す)ことである。このように位置づけるならば、一般的に情報に精通しているといった意味で使われる、「私は知っている」には大きな欠陥が含まれる。「知っている」つもりという厄介な思い込みが、「知らない」ことを知るという思考の深堀を妨げるのだ。本来、知れば知るほど、知らないことに気づいてしまうはずだから。と同時に、知るはそこで止まらない。知ったらやらねばならない。やれて初めて「知」として体化(昇華)される。情報化時代は、情報量が過多だからこそ、自らの知について捉えなおすチャンスでもある。

インテリジェンスの最大の弱みとは何か。逆説的かもしれないが、インテリジェンスにとって、インテリジェンスこそがウィークポイントとなる。知をもって物事を制するという発想は、知ですべてを統べるという錯誤を生み出しやすい。結果的にインテリジェンスへの依存が弱みであることが見えなくなる。もちろん、他に抜きんでるためにインテリジェンスは不可欠な要素ではあるものの、それはある程度計算可能な領域での話である。昨今話題の想定外などどいうシナリオにおいては、インテリジェンスを超越するものが発生する。これは不可避だ。今必要なインテリジェンスは何かと立ち止まっている余裕のないとき、知よりも体が優先する。考えて行動するよりも、行動しながら考えるしかない。ロバストネスを備えることは、知と並行するし、また知に勝るとも劣らない。